2010年12月27日、わたしは書記官室に「反対書面」をもっていった。担当の男性書記官に「反対書面です」といって渡すやいなや、島村裁判官がはそれを聞きつけて、裁判官室から出てきた。
「反対書面とは。今までの引き下がらせる
努力はどうなったのだ!!」といわんばかりの顔 。
じつは2011年1月25日まで島村裁判官の勘忍袋は持たなかった。
この日までに裁判官はこの日の弁論準備でとるべき態度を決めていたようだ。
やわらかそうなところも多々あるように見えるけれども、最終的には「独裁的」というのが本質のようだ。
わたしの訴えは最初から「自爆テロ」のようなものだ。それに対して自爆テロという顔をしなかった。
引きさがるべきという態度が多かった。いい人に見せたい、そういうのが正しい、と最近思う。別にいい人ぶってもきびしい相手方であれば意味ないんだけれど。
相手方にわたしはきびしい意見を書いていたから、裁判官のわたしにはいい感情をもたなかったのだと思う。最終的に反論させるという筋書きを準備したのだと思う。
1月25日の弁論準備で菅野弁護士は、わたしが急に請求の内容をかえ、趣旨変更の申し立て書も期日の7日前というぎりぎりに出したことを難詰した。
わたしは、前の年の12月27日に書記官室に行って、請求の趣旨をかえる予告をしていた。男性書記官は裁判官にわたしの噂のすべてを告げるような人だから、これも伝わっているか。いや、隣りの裁判官室で聞き耳を立てて裁判官は当日聞いたようだ。
わたしの場合第1回弁論準備のとき(お互いえらい年がちがうのに)菅野弁護士とわたしと裁判官が中学校か小学校の同窓会で出会ったといったシチュエーションを作った。腹立たしかったが、腹が立つようにそういうシチュエーションにしたのか、それが効果がある人物にわたしが見えたのか。
次はそういうのはだめだから、「わたしはあなたの特別のお理解者」というムード作りをした。
いろいろなことを忘れて聞くのでIC録音をわたしもすることにしたが、1月25日からはじめたが、この日に裁判官の態度・訴訟指揮が豹変したので、巻き戻して聞くと、涙がとめどなくあふれてきて、全部きかないうちに全消去した。
その足でわたしは岡山地裁にいって美容外科の判決を読んだ。
裁判官はわたしが取ってほしくない態度を取り続けるーー 相手方はわたしが予期していたのとまったく同じ態度を示した。
裁判官はこれらを「ボーっ」とした顔でながめていた。
12月27日(12月28日で御用おさめとなるので、この日に書記官室に書類をもっていく)に書記官室で見た顔が本来の顔なのだ。アタマとってもよさそー。ものごとを整理して組み合わせて考えられそうな秀才顔。
それが弁論準備では「ボサーっ」とした顔になる。
そうだ、弁論準備では「アホ」でお人よしを演じるのだ。(シナリオ2)
台本とは、
「まず、和解をすすめなさい」
原告だけが悪いと思う場合には原告だけに「和解案を書いて来い」という。(シナリオ1)
そのように政府が主催している「研修」ではなっているのだろう。
そのとおりにする。政府お達しの研修のとおりするのは、ある意味アホである。応用力、努力心において欠如している。
では、努力心に欠如している裁判官は相手方にどう見られるかといえば、「台本どおりにすすめている。わたしもそれに合わせよう。」と思われるのだ。
台本どおりにやってだめだと悟ったら、まるで風見鶏のように風に押されるようにくるりと向きをかえる。(シナリオ3)
だまし討ちのような裁判のシナリオの原型を考案したのはこの裁判官ではないでしょうが、研修で教えるパターンをおぼえて、それを使用する決断をしているのはこの裁判官自身なのです。
「引き下がるかすずめの涙のような見舞金を受け取って立ち去る」と第1編で書きましたが、やはり考えると、1月25日の弁論準備に来た被告に「お金を払おうとは思わない?」といったのは(原告への)愚弄なのです。「愚弄しようが、”和解”ということばをもて遊ぼうが、この原告は裁判所に出て来る。ああ、次は「不陳述」を用いるしかないな」と思う。
「見舞金」をほんとうに被告にあっせんする気があるなら、「こうこうこういうわけで、原告は損害をこうむり、いやな思いもしているから、金一封を支払う気はありませんか」とそれらしいふんい気でいうでしょう。
それが、京都の人がいらない客に帰ってほしいときに「これからぶぶづけでも召し上がります?」というときのような手慣れた調子なのです。
被告に対して「これからぶぶづけでも」といっているのを横できいていれば、「この不誠実な裁判官!許せないわ、アホらし。」と原告が思ってくれるのを待っているのです。
そういうふんいきが大きらいそうな小・中学校の同窓会とかいった風情を演出して、二度と裁判所に来たくないと思わせるのが第1手。
けれど、そういうシチュエーション作りをして、裁判所に大きな怒りを持たれてもこの裁判官はこわくて、つまらなくなるのです。
次の弁論準備に向けて原告がそういうことがなければ「和解する」と強くいっていた姿勢をくずして被告のことを大きくののしる書面が出されると、裁判官は方針をかえざるをえないと思うのです。
「ああ、わたしがああいうシチュエーション作りをしたから、わたしに対する反感が被告に向かった。別の手を使うしかないな・・・」
別の手といっても、いろいろあったのです。
何か不誠実な交際相手がいっしょに住んでいるか、週末に来ている、といった風情を(昨年の)12月になると演出し出しました。
これは確実に嫌がられるだろうけれども、小中学校の同窓会をいやがるこの人は、この手は以外と嫌がらないのではないだろうか、と。
けっこうこういうのが今の乱れた世の中では受けるから、何をいっても引き下がらない原告に用いていたのかもしれません。
そのような不純な態度と「ぶぶづけでも召し上がる?」をくりかえしていると、訴えに出た側のほとんどはまっしぐらに出口に向かう。
まっしぐらに出口に向かわないことも100回に1回程度はあるんでしょう。
そのときには、提出した原告の書面という書面を、原告が見ていない間に書記官と打ち合わせて 不陳述にする。
そうすれば出てくる人はまあないと思っている。
みんな時と金で動いているから。
わたしの場合、それで家に帰ると同じような事例、環境が山のように待ち受けているという状況があった。帰れば地獄、裁判所でも地獄というありさま。
裁判官はもうできることは何もないから、次はほんとうの”だまし”しか残ってないと判断したようだった。
ほんとうのだましとは、請求の趣旨変更申し立て書がわかりにくいから、金額だけ箇条書きにして書いてくるようにという指示のことだ。
これはどんなトウヘンボクが聞いても、だまし討ちだとわかる。けれど、だまし討ちだと最大限思わせないようにするためか、以前に書いた高校のクラブ活動の先輩・後輩という関係を演出したのだった。
これもまたおもしろくないのだ。
おもしろくないから怒る気持ちと中途半端な友情めかしたものが存在するのではないかというふんいきの中で書面を作っていると、「被告といっしょにいなければならないならば死にたい」という思いが消えるのだった。
裁判官は、請求の趣旨変更申し立て書と陳述書は全部不陳述にしたが、被告に対する恨みと被告代理人の答弁書の中の事実無根のはげしい暴言に対する反論書面は通してくれていた。
【石丸裁判官時代】
4月になって裁判官が交代することになった。
4月25日の弁論準備に出ると石丸将利裁判官はその見かけによらず、原告がなぜ裁判を続けているかといえば「被告らかは多大な損害をかけられ、損していると思うのであきらめられないところがあるのです」とわたしがいうと、
「そうですね」と相づちを打つのだった。
こんな見かけけわしい人が、裁判の判決では認められたことがないような損害賠償請求に相づちを打つのかと思った。
問題のたな子が住んでいる土地とフェンスで仕切られている土地は、実は売れたのだ。
わたしは、仲介に入ってくれた子に、通常世間では通用しないような裁判をやっていたことを隠そうと思った。けれども仲介に入ってくれた子は、そんなのでもいいから、「小もの」と相手方のことを思っている買い受け希望者にほんとうのことを話してもだいじょうぶ、というので、境界線をとられ、フェンスに重量をかけて曲げられたので、その対価を支払え、というものです、とだけ言った。
被告らが小屋をつくって、境界線付近と道路後退しなければならないところに小屋が陣取って、道路が一直線にできないことについては、あまり強く訴えの内容を伝えなかった。
おおよその訴えの内容を聞いた買い付け希望者は、被告が小屋をつくったことをわたしが裁判では問題にしていない、と思っていたことが決済の日わかった。
彼は、元被告の土地も求めているのだった。
やめたほうがいいですよ、といっても「小ものやと思っている」といって、何とかなると思っているらしい。
そして、どうやって元被告に近づくかといえば、「小屋など境界線を越え、官民境界線まで越えてつくって仕舞わないということは、大家に多大な迷惑をかけていることになるのとちゃうか」とか言いに行くらしい。
やはり、ディベロッパーから見れば、小屋など分割が予定される線上や官民境界線上に陣どっていることは、あわれむべきことらしい。
石丸裁判官の家もディベロッパーないし、建設業ならば、その心情がひしひしとわかるんだろう。
世の中にはお金の賠償が認められなくても、裁判官があわれ、と一時的に思う事件もあるらしい。
多額の損害賠償や名誉棄損などを扱う事件も、裁判官は見せかけか、真の同情か、ひとたびはあわれと思うしぐさを見せたりするのかもしれない。
けれど、わが石丸裁判官のは一時、原告へのなぐさみで”あわれみ”をかける態度を示したというもので、実はあわれみをかけることによって、原告の精神の安定をはかろうとしたらしい。
精神が安定すれば、ぐちゃぐちゃいうのをやめる原告もいるし、請求項目を減らす原告もいる。
現にわたしも裁判官があわれみをかけてくれたので、精神が少しだけ落ち着き、4つ掲げていた請求のうち1つは減額し、主要なひとつは取り下げると次の口頭弁論用の準備書面に書いた。
予想どおり、菅野園子は請求項目を減らすことには同意しなかった。
こちらが、大負けすればするほどおもしろいのだ。